2009/07
もう一人 写真の開祖 下岡蓮杖君川 治


 下田公園に蓮杖の記念碑と胸像がある。右手に蓮の杖、左手に箱型カメラを抱えている。横浜馬車道にも蓮杖の顕彰碑が立っている。
 携帯電話のほとんどがカメラ付となり、撮った写真を相手の携帯電話に送ったりパソコンに取り込んで印刷できる、非常に便利な時代となった。(とはいえ便利だから良いとも言えないが。)
 情報化技術についてこれまで新聞博物館、印刷博物館、紙の博物館を見てきたが、ありのままに情報を伝える写真もまた重要な手段である。そこで半蔵門にある、日本カメラ博物館に足をはこんでみた。
 ここには明治の後半から生産され始めた我が国のカメラが年代順に展示してある。時代物のカメラが沢山あり、カメラマニアにはたまらない場所と思われるが、残念ながら説明が全く無い。展示品の説明資料について聞いてみたが「無い」とそっけない。館長が官僚出身の元文部大臣経験者で、新聞・印刷・紙の、どの博物館と比較して内容はお粗末だ。最初に展示されていたカメラはフランスのダゲールが1837年に発明した銀板写真で、このダゲレオタイプの木箱写真機を見ることができたのが唯一つの成果であった。
 カメラ博物館の隣に資料館(図書館)がある。誰も居ないロビーで、パソコンで資料の検索をしていると女性が出てきて「どのような本を探しているのか」と聞いてくれた。「日本のカメラの歴史を知りたい」と言うと、親切に3冊選んで持ってきてくれたのだが、この中にカメラ博物館では無いと言っていた展示品説明資料「日本のカメラ 誕生から今日まで」が有るではないか!
 幕末にオランダ人が持ち込んだ、カメラを使用した記録は色々ある。長崎の上野俊乃丞が初めて使用したのが1848年、島津斉彬がダゲレオタイプカメラを入手したのが1849年、川本幸民がオランダ書を研究して写真撮影に成功したのが1851年であるが、本格的に写真を普及させたのは長崎の上野彦馬と下田の下岡蓮杖であり、共に1862年に写真館を開設している。上野彦馬は長崎医学伝習所で化学の知識を習得しているが、下岡蓮杖は全くの独学であり、写真に対する好奇心一筋で技術を習得した興味ある人物である。
 5月末の好天の1日、下田散策を楽しんだ。伊豆下田は温泉の街、伊豆踊り子街道終着点の観光の街、そして何よりも幕末の開港の歴史の街である。熱海から特急踊り子号に乗れば約1時間で下田に着くが、伊豆急が伊東から下田まで開通したのが昭和36年で、それまでは陸の孤島であった。
 下岡蓮杖は下田の回船問屋桜田与惣右衛門の三男で本名は桜田久之助、文政6年(1823年)の生まれだ。下田は江戸に出入りする船の検閲を行う海の関所で下田奉行所が置かれており、船改めを待つ船の船員で賑わった町だ。蓮杖は13歳の時、江戸日本橋の足袋問屋に丁稚奉公に出て、仕事の傍ら奥絵師狩野薫川に入門して絵を学び薫円の号をもらった絵師でもある。三田の島津藩邸に出入りして、たまたま一枚の写真を見てこの虜になり、外国人に会うチャンスを狙って浦賀の外国船検査奉行の足軽となる。故郷下田が開国となると下田に帰り、アメリカ総領事ハリスの通訳のヒュースケンの助手となり、写真術を少し教えてもらう。
 下田が閉鎖となって横浜が開港となると直ぐに横浜に移り、アメリカ人ラファエル・ショイヤーの商会に勤務し、アメリカ人職業写真師ウンシンと知り合う。しかし弟子入りの希望は叶えられず、助手のラウダー夫人から少し写真術を教えてもらっていた。
 ウンシンは業績不振で帰国することとなり、下岡蓮杖は写真機と機材一式を譲り受けた。しかし化学的知識は乏しく、直接指導を受けていない蓮杖の苦難の研究がここから始まるのである。現在のように写真を撮影するだけでなく現像・定着をすべて自分でやらなければならない。
 下岡蓮杖の名は、彼が写真術の習得が思うようにならずに悶々としている時、蓮の根を形どった杖を作り、「野辺山路わけて辿らむ色も香も清き蓮の根杖として」と彫刻して常に持ち歩いていたことで付いたペンネーム、下田の岡方村出身でこの名を愛用した。
 苦労の末、写真撮影・焼付けに成功して横浜に写真館を開設したのが1862年、地の利を活かして外国人相手に営業し商売は繁盛した。
 独力で技術を習得した蓮杖は商売上手であった。刀・槍・鎧・屏風・和服など日本的な小道具を取り揃えて写真を撮影したこと、絵師の特技を活かして写真に彩色してカラー写真としたこと、錦絵などを写真館で販売したこと、日本の風物を撮影したアルバムを「横浜写真」として販売したことなど、多数あげることができる。
 伊豆急下田駅から通りを隔てて寝姿山へ登るケーブルがある。ここはその昔、黒船を監視する見張り小屋があったところで、展望台から下田港が一望できる。ここに蓮杖写真博物館がある。蓮杖愛用のカメラや使用した機材、撮影した写真、蓮杖の描いた絵などの遺品が展示してあり、初期の銀板・湿板カメラや国産や外国製の古いカメラが展示してある。しかし観光客の多いこの場所で、このような展示品に興味を持って見ている物好きはあまり居ない。
 博物館では記念写真を撮影するスタジオが人気を呼んで、若い人たちの行列が出来ていた。男性はペリー提督の軍服を着、女性は白やカラーのドレスを着て記念写真をしている。
 蓮杖が開拓したのは写真の利用技術であり、蓮杖の下から多くの職業写真家が育ち、写真館全盛時代となる。しかし写真機および写真機材の多くは外国からの輸入に頼っており、国産の写真機が作られるのは明治36年(1903年)小西本店が製作したチェリー手提暗箱が最初である。この後、1917年に日本光学工業、1919年に旭光学、高千穂製作所(オリンパス光学工業)などがカメラの製作を始めるが、欧米のメーカーの模倣品からスタートしている。
 写真機が使われ始めてからの約150年を、利用者を主体に時代区分すると
 1)来日写真家の時代
 2)写真館・写真師の時代
 3)アマチュア選民時代 
 4)アマチュアカメラ普及時代となる。

 駅から下田湾に沿って歩くとペリー上陸記念碑が海岸に立っている。下田公園は小高い山になっており、その中腹にペリーとハリスのレリーフのある開国記念碑がある。1854年に日米和親条約が締結された了仙寺はアメリカジャスミンの花が満開だった。すぐ近くには日露和親条約が締結された長楽寺もある。
 下田湾を東側までまわるとアメリカ総領事館のあった玉泉寺があり、ハリス記念館がある。 色々思いを巡らせていると突如黒船(観光船)が現れた。世の中平和である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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